東京―新潟間の夜行列車というと新東の「ドリーム上越」とJRの格安夜行快速の「ムーンライトえちご」この二つの夜行列車のはライバルで臨時列車の運行終了まで競合が続きました。
新東電鉄のドリーム上越が運転開始する前、まだ新潟線が全通しておらず東京―新潟間の長距離輸送は国鉄を使うしかありませんでした。
その長距離輸送で夜間の部分を担ったのが上野―秋田間で運転されていた普通1821・1822列車でした。
1968年に長岡に短縮の上115系化されました。
そのご1972年には下りだけの夜行列車となりました。
この時733Mという列車番号が与えられました。
この普通列車は朝4時台に長岡につくというもので、途中でほかの列車に乗り換えないと新潟まで行けませんでした。
この733Mはこの夜行競合のもう一つの主役の先祖です。
198X年3月15日開業と決定した新東新潟線では関東―新潟間の夜行列車を運転する計画が持ち上がりました。
この計画が決まった背景として、昼行で新幹線との競合として山手線の西側を中心に集客する方針なのに対し、夜行の場合は新幹線の最終発車後に出るため、東京全体から集客できること、下り1本だけの国鉄に対して優位に立てるからです。
計画は上下1往復とし、新潟県からの首都圏移動に対応する。
ダイヤは733Mに比べ利用しやすい時間帯とするとともに特急車用を使い115系運用の733Mよりも快適性を向上させる。
というものでした。
寝台車の連結は新宮行きなどの距離の短い夜行列車での例があることや、横になって移動できることをメインに使用ということで連結することにしました。
車両は特急車両の複数形式を登場させることを避けるため300系の一部とし、寝台車の入った夜行編成を用意することとしました。
寝台車はライバルである国鉄の24系25形を参考に電車化したサハネ310形を新製することにしました。 内装はモデルとなった24系25形同様に枕木方向に2段式開放寝台になりました。枕木方向としたのは、昼夜兼行を予定していないこと、1980年代時点で二段寝台への移行期であることが理由です。
ドリーム上越運転開始と733Mの終焉
ドリーム上越の停車駅
ドリーム上越は198X年 日の新潟線全通に伴うダイヤ改正で運転を開始しました。
停車駅は新宿(上図の通り)、池袋、大宮、熊谷、高崎、長岡、新潟、新潟中央で、
新宿発23時、新潟中央到着は朝5時台に到着するダイヤです。
東京―新潟間は距離が短く、なおかつ、新東の新潟線渋川ー越後湯沢間は最高速度160㎞/hの高速運転路線のためそのままでは朝早くつきすぎるため、高速区間での減速運転と、時間調整のための運転停車をして到着時間を遅くしました。
新潟線全通後しばらくは東京―新潟間の夜行移動は前述の夜行普通列車もしくはドリーム上越を選ぶかという状況で、上下とも運転されていて、時間帯もよいドリーム上越が新潟―首都圏間の夜間移動の主流となりました。
ただ特急料金を取るため一部の格安で移動したい層が733Mを使うという状況でそれに対する対策として新東では整備の進んでいる関越自動車道のバスに参入して格安利用者層を取り込むことを計画しました。
1985年、関越道が全通し、池袋ー新潟間(東京―新潟線)の高速バスが運転を開始しました。
そのバスに、新東電鉄の系列の新東交通も新潟交通などとともに、共同運行会社として東京―新潟線の運行に携わることになりました。
これにより1985年3月改正で733Mは廃止に追い込まれることになりました。
1985年、733Mが廃止に追い込まてから、関越高速バスと新東ドリーム上越への対抗策として当時の国鉄新潟管理局が対抗手段として企画した列車があります。
後に、2009年まで長きにわたって、ドリーム上越のライバルとなるのが快速「ムーンライトえちご」です。
1986年の試験運行で好評な結果を得たことによりJR化後の1987年9月、関越高速バスの夜行便と新東ドリーム上越への対抗として、新宿―村上間で週末や休暇シーズンのみの臨時列車としてスタートしました。
翌1988年、定期化されドリーム上越とムーンライトえちごの競合関係が激しくなりました。
この当時のえちごは165系でしたが、グリーン車転用の座席を設置するなどし、新東特急の座席車、高速バスと変わらない快適性となりました。また快速列車であるため特急料金を取る新東に対して運賃だけで乗れることからながらへの流出も起こりました。
当時のテレビCMでもJRは安いことを売りにしていました。
また新津や加茂といったドリーム上越では直接行けない駅に泊まることによって利用客を集客するという方法もとられています。
この状況の対策として新東では横になっていける寝台車を積極的にアピールしたり、上越特急きっぷの利用対象に寝台車も指定するなど料金面での差を少なくすることによってJRへの対抗を図るようになりました。
JR側のムーンライトは料金不要の快速列車であるので、青春18きっぷでも利用できます。
同切符の期間中は18きっぷ利用者で混雑し乗れなかった人やそれによる混雑を嫌がる人がドリーム上越を利用する場合もありました。
このように、夜の首都圏ー新潟県間の利用者で競合をしていた両列車ですが
その競合を終わらせる存在が出現することになります。それが高速ツアーバスです。
2000年と2002年の規制緩和により、数多くの事業者が参入しました。
当然首都圏ー新潟間も例外ではありません。
ツアーバスの台頭は、環境を大きく変え、関越高速バスよりも低廉な運賃で、多数運行されるようになり鉄道からの流出が目立つようになりました。
400系に置き換えられていたほかの上越編成とは違い、2006年まで引き続き300系を使っていましたがこちらも新車に置き換えることになりました。400系の増備という形ですが、寝台車は中国の軟臥、日本でいうカルテットタイプの個室寝台(ただし寝台一つごとの販売)に置き換えました。
この2000年代に特急型の485系への車両が置き換えられ、車内設備のレベルが並びましたが2006年以降は再び新東が上回りました。
ついに2009年3月改正を持って臨時列車に格下げさされることになりました。
これ以後、18切符シーズンだけの臨時列車となり、同切符を使って新潟からさらに先を目指すための列車と役割が大幅に変わり、競合も終焉へ向かうことになります。
以後はドリーム上越競合相手はツアーバスだけとなっいます。
なおツアーバスは関越道の事故などで規制が再び強化され現在は路線化されたのもが残っています。
このころは日常の夜間での鉄道アクセスは新東が、このきっぷのシーズンのときだけ競合相手が増えるという感じでした。
2014年3月以降、ムーンライトながらの設定がなくなり競合の歴史は27年を持って幕を閉じました。
北陸新幹線開業による新潟の特急車両の再編が大きく影響しているのと、満杯のながらに比べると空席があること、また一部経済専門雑紙で指摘されていることですがに幽霊乗客(指定券を買っているが実際には乗らない)が多かったといったことが廃止の要因になったのではないかと思われます。
一方のドリーム上越が定期運転を保てた理由として寝台車やデラックスシートで快適性を売りにして棲み分けを図ったこと、また高崎、熊谷への最終特急列車を兼ねていたことにより高崎までの利用もあるので(定期券での併用乗車が認められている)残ったといえます。
またバスが新潟駅や万代島方面なのに対し、新潟中央駅で古町地区に乗り入れることも新東ではアピール点にしました。新潟の旧来の中心市街地は駅周辺ではなく古町地区であるからです。
ムーンライトえちごが完全に運行をやめた2015年以降、首都圏―新潟間の夜行移を担う唯一の夜行列車であるドリーム上越ですが1日だけ東京―新潟間に夜行列車が複数運転されることになりました。
それが「スターライト上野」です。
アイドルグループのイベントが新潟で開催されることになり、観客が集中することによって新潟市内および周辺の宿泊施設が予約困難になったりすることが予想されるため観覧客の救済を目的としてスターライト上野が運転されることになりました。
新宿ではなく上野発着となり、ドリーム上越と最終目的地が分かれています。
しかし、一般売りの臨時列車であったため30秒で本来想定された観覧客ではない別の利用層によって買占められそ観覧客が乗れななくなり、代わりに新東の定期のドリーム上越がその役目を果たすことになりました。 かつての競合相手に乗れなかった人を救済するということになりました。
今後、このような大規模なイベントがないかぎり東京―新潟間に複数の夜行列車が走ることはないでしょう。
東京―新潟間の夜行列車競合に思いをはせながら乗るというのもまた面白いものではないでしょうか。